きょうの朝日新聞デジタル版によると、「LGBTは面倒くさい人たち」だというイメージを抱かれているという。
LGBTとは性的少数者と訳される。性的少数者とは、性的多数者でないものとしか定義することができないが、一般にわが国でLGBTというときは、同性愛者を指す場合が多い。
多様な性とは、女と男というふたつの性別しか存在しないという性別二元論と、女と男がつがうことが自然で普通なんだとする異性愛主義の二つの価値観から、外れたものとしていくつもの性のありようがあるということ。
この世には女と男しかないという二元論では、インターセックス(中間的な性、半陰陽あるいはふたなり。男女両方の性を兼ね備えていて、性別の判別がむずかしい状態)や身体の性とこころの性が一致しない性同一性障害の人、医療行為を必要としないトランスジェンダー(性別越境者)などが少数者に位置づけられる。
異性愛主義では、同性に欲望が向いている同性愛者(レズビアン・ゲイ)や性対象の洗濯において相手の性別を重要視しない両性愛者(バイセクシャル)などが少数者に位置づけられる。
このようにさまざまな性のありようがあれば、それぞれの立場立場で、さまざまな利害関係もうまれてこよう。
なのに、多様な性のありかたをLGBT、性的少数者という言葉で、ひとくくりにしようとすることが所詮、乱暴な話である。
自分たちは性的少数者ではないと思っている人たちが、「当然だ」とする価値観から外れている人たちを、とりあえずひとつの大なべに放り込んで、大なべに放り込んだ人たちがめいめい勝手な理屈をこねているに過ぎない。大なべに放り込む人の中には当事者もいる場合もある。
LGBT(性的少数者)の解放運動は北米・ヨーロッパで発生した。旧約聖書に書かれた文言をルーツとしているのである。わが国は旧約聖書をベースとする国ではない。
わが国は性に寛容で、多様な性のありようが許されていた、と言われるが、それは、男性が女性の姿になったり、女性が男性の姿になったりする性の転換において寛容であったと言ったほうがいいだろう。
プラスとマイナスが交わって、万物を生ずる。
中国の陰陽思想の影響を受けたわが国においても、男と女が交わって子孫を残すことが最優先で、同性愛行為はそれを補うものとして許されていたにすぎないのではないかと思う。
LGBTは「面倒くさい人たち」だというイメージを抱かれているというのは、同性愛偏重で、なおかつ、身体は男でも、心は女でも男であると言って見たり、わけのわからない外来語をつかったりするから、聞いているほうは言葉の定義に忙しくて、疲れてしまうからだ。
こころの性と身体の性が異なっていて、自分は自分の望みの性でふつうに暮らしたい、と言ったほうが、単純でわかりやすくはないか?
わたしは男でもあり女でもある、なんて言われると、言っているほうはいいけど、聞いている側が理解不能だろう。結局、なにをしてほしいのか、どうしてほしいのかわからない
どうすればいいんだろう、ということになってしまう。
小難しい外来語や仲間うちでしか通用しない言葉をつかうのは大学のサークル活動で使えばいい。しかし、ふつうの人たちの語りかけるときには、そうではなく、分かりやすく、ふつうの言葉で、自分はどうしてほしいのかということをこころの奥底から伝えることが必要ではないか、とわたしは思うのである。
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