男で生きるか、女で生きるかは、理屈じゃない

仏教には上座部仏教と大乗仏教があります。

上座部仏教は、インドから南に向い、スリランカ、ミャンマー、タイなど東南アジアの国々に伝わり、出家者中心の、自分が悟ることを目指す仏教なのです。大乗仏教は北に向かい、中国、朝鮮半島、日本など東アジアに伝わりました。ふつうの人たちの救済をめざし、世俗とまじわりながら、ともに幸せを目指します。

上座部仏教では、男と女の区別にこだわります。その中間の存在は一応認めるのですが、出家は認めません。「男か女かわからないお前らとは、一緒に修行はできないよ」と言って追い出されてしまいます。

たとえば、トランスジェンダーで、こころは女性で、身体が男の人は、男としてみることになっています。こころは無色透明だから、身体にこころをあわせる修行をさせれば、こころも身体も男になるということなのです。


男か女かわからない人の存在は、いちおう認めてあげますが、存在そのものは絶対、認めないよ、立場なのです。


では、なぜ、そういう人が生まれてくるのかというと、上座部仏教では、性別をつくる性色と名づけたエネルギーがうまく機能していないからだ、そうです。どうすればそのエネルギーを機能させることができるのかについては、わからないようです。



いっぽう、大乗仏教では、あれこれ分析しても、分類したところで理解できるはずがないよ、と言って、「そこにあるものは、そこにあるものとして、そのまま理解せよ」という立場。

お母さんのお腹にいるとき、お母さん自身がストレスかなにかで、ホルモンの異常をきたしたからこうなったとか、男性色のエネルギーと女性色のエネルギーが入れ替わったとか、そんな確かめようもないことを当てにしないで、そこにいる人を、あれこれ考えずに、そのまま受け入れなさい、ということ。


ようするに、

その人が男か女かと、そういう風にみてはいけないよ、

その人が男か女かという区別は、一人ひとりのこころが生み出したものなんだよ

そんなつまらないとらわれは、すててしまいなさい、という立場だ。

釈迦の弟子のなかで、智慧第一といわれたシャーリープトラ。大乗仏教では、上座部仏教の代表選手のように描かれています。維摩経というお経のなかに、こんなことが書かれています。


シャーリープトラが天女に対して

「そんなことをするんだったら、男になればいいじゃないか?」と言った。

天女は「12年も女として修行しているのですがねぇ、」と言うと、神通力で、シャーリープトラを自分と同じ天女の姿に変えてしまう。

シャーリープトラの姿に変わった天女は、

「男か女かというのは、一時的にあらわれた仮の姿にすぎません。本来、この世界は生じることも滅することも、増えることも滅することもないのです、なんの違いのない平等な世界なのですよ。あなたは一時的に現れたものに対するこだわりが強すぎるのです」とシャーリープトラに言うのであった。



たしかに、上座部仏教が言うように、この世にある身体をもつ生命体は男か女であろう。その中間は存在していないように見えるのであろう。

しかし、よくよく見ると、男か女か見分けのつかない性器をもつもの、身体は男だけど、女性として生活したほうがいい人、性とはさまざま、多様であることに気がつかされる。

こころは、どんな色にも染まる。性の意識はどうやってできるのか?そんなこと、わかるわけがない。もし仮に、男らしさ・女らしさを作り出す原因がわかったとしても、それは人の知恵という限定的なもの。



ようするに、

スカートを履きたいからスカートを履くのです。

ルージュをつけたいから、ルージュをつけるのです。

ブラがしたいからブラをするんです。

理由なんて、どこにもありません。

生きたいように、生きればいいことじゃないですか?

男でいきるか、女として生きるかは、理屈じゃないんです。

月読日記

スピリチュアルなこととか、性のこととか、トランスジェンダーのこととか・・・

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