土俵には女性は上がれない。女性が土俵に上がると、神聖な血で穢れるからだ。
今月4日の大相撲春巡業京都場所で、舞鶴市長が土俵で挨拶中、体調を悪化させて倒れた。場内が騒然とするなか、土俵に2人の女性が駆け上がり、懸命に心臓マッサージをした。その女性たちに対して、「土俵から降りるように」との場内アナウンスがあったという。
そもそも大相撲は神事だった。直径4.55メートルの土俵は、五穀豊穣を祈願し、力 士に怪我や災害がないように、地の神に祈りを込めた儀式を行い、神酒できよめる。力士が塩をまき、四股を踏むのも地のなかの悪霊を鎮めるためだ。
相撲協会は日本にひとつくらいあってもいい、と土俵の女人禁制を正当化している。このたびの一件を見ると、人の命よりも、土俵が大事というよりは、むしろ、男は主、女は従の考え方そのものを維持し続ける頑固さを感じる。
わが国の宮廷儀礼から、生理中の女性や出産は女性の穢れとして退けられたという。その穢れは周囲に伝播するからということで、生理中の女性や出産の穢れを完全に排除するために、食事をつくる火を別にしたり、かまどを別にしたり、あるいは食器を別にしたりしていた。
出産の場合、男性を絶対に近づけない。出産の場所も日常の生活の場である母屋とは離れた産小屋で行なわれた。産小屋には母屋から離れたという意味と穢れたという意味があった。
平安初期の朝廷の年中儀式や制度を定めた延喜式には「産は七日」とある。出産後の女性は七日のあいだ、天皇を穢すものとして排除されたのだ。生理や出産は、決められた期間が終われば、籠もる生活や宮下がりから宮廷に戻ることができたらしい。
男たちの勝手な理屈で、女性は穢れた存在であると決め付けられ、そして、女性は自分たちが穢れているということを受け入れた。
女性にかかわる穢れは、女性差別につながり、女性の排除という論理を強化してきた。そしてその穢れ観が信仰を通して強化され、女性の生き方に影響を与えてきた。
それは、自らを穢れと結びついた罪深い存在であるというジェンダーアイデンティティを内面化し、男性を主、女性を従とする非対称な関係をあたりまえとする日常を形成したのである。
その男は主、女は従という非対称性は、そのまま、トランスジェンダー女子に対する差別と偏見に連なっていくのだ。
(参考文献:「ジェンダーで学ぶ宗教学」田中雅一・川橋範子編 世界思想社刊)
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